歴史
青谷地域(鳥取市青谷町区域)は、古くは縄文時代から人々の生活が始まっていることが確認されています。縄文時代の人々は、海や野山で漁撈・狩猟や採取で生計を立てていたのでしょう。
弥生時代になると、内湾は砂丘で閉ざされ広い平地や湿地ではコメ作りが行われるようになりました。国史跡に指定されている「青谷上寺地遺跡」は、「地下の弥生博物館」とも称され、弥生時代の遺物(土器・石器・木器・金属器・獣骨:人骨など)が多種大量に出上し、その中でも1,353点の遺物が国重要文化財に指定されています。
青谷上寺地遺跡の弥生人は、大陸からもたらされた鉄器などの工具により、花弁高杯をはじめとする木製容器類や管玉などのモノづくりを行い、広く交易していたことがわかります。
古墳時代には、低地での水田耕作が盛んになり、丘陵上や山すそには多数の古墳を築いています。
飛鳥時代になると、古代山陰道が造営され、青谷のまちも栄えていました。
室町時代後期には戦乱の世となりますが、青谷のまちでの戦闘はあまり記録に残されていません。
江戸時代初期には、鹿野城主である亀井玆矩が産業振興を推し進め、また御朱印貿易で青谷の港を拠点として海外貿易を行いました。夏泊の漁業や海女漁が始まったのも亀井公の業績の一つです。
鳥取城主池田公以降は、青谷に御蔵が置かれるとともに、北前船航路を利用した解析業も盛んに行われるようになりました。
明治時代には鉄道が敷設され、まちの中心が駅前に移ってきましたが、その後国道9号線が海岸沿いに建設され、さらに最近は高規格道路「山陰道」の開通によって、青谷のまちも次第に変化しています。
以後、
昭和33(1958)年 中学校統合。
昭和36(1961)年 商工会設立、農業協同組合統合。
昭和40(1965)年 町営住宅第一号完成。
昭和50(1975)年 因州和紙が国の伝統工芸品の指定。
平成5(1993)年 あおや郷土館と新庁舎のオープン。
平成13(2001)年 青谷上寺地遺跡展示館オープン。
平成14(2002)年 あおや和紙工房オープン。
平成16(2004)年11月、鳥取県東部9市町村(鳥取市、国府町、福部村、河原町、用瀬町、佐治村、気高町、鹿野町、青谷町)の合併で鳥取市となったのが現在までの主な経緯です。